みなさんおはようございます(^O^)
ゆうべの雨が上がって少し肌寒いけど清々しい朝です。
近くの公園はイチョウの紅葉が綺麗に。
子供の頃、この公園のこの場所で土曜の午後は毎週野球をやってました。
平日の少年野球の練習は毎日、小学校のグランドで。
公園はこんなに木があって、地面もデコボコ・・・・・
こんな場所で野球の練習を。
子供の時は父親は私に何でもスパルタでした。
とにかく親父が怒ると恐かった。
小学2年生の時に初めて親父とキャッチボールをした時、父親の投げる球は加減なしで私に投げてきた。
初めてグローブを付けたのに、それでも容赦なく投げてきた。
「正面でとれっ!」って・・・・・ とれるわけがない。
子供なら父親とキャッチボールをするのが楽しみなはずなのに父親に「美登樹キャッチボールやるぞっ」って言われると急にブルーに。
小学4年生の時に小学校の少年野球チームが出来たので私も入団。
4年生から6年生まで総勢80人くらいのチーム。
そのチームがやたらと弱い 笑
田舎ものだから本当の野球なんかやったことない。
ルールも知らないし、そもそも近くにスポーツ店もないから道具なんか誰も持ってない。
遊びと言えば木登りや缶けり、かくれんぼ、メンコにベーゴマ、あとは何だかわからないけど常にみんな泥だらけ。
遊びは常に全力 笑
上級生も下級生もなく、いつも大群で遊んだ。
チームは6年生チームと5年生チーム。
私たち4年生はいつも練習のみ。
上級生たちは試合のたびにコールド負け・・・・
20対0とか19対1とか負けっぷりもみごと。
負けても悔しがらない。
とりあえずみんなやらされてる感たっぷり。
あまりの弱さに試合をしてくれるチームもだんだん無くなってきた。
それでも先生たちは監督とコーチとして負けても負けても根気よく指導を。
私たちのチーム名は「78」(ナナハチ)。
七転び八起きという意味。
先生がその意味を私たちに良く話を。
先生たちの熱心な指導の甲斐もあって少しづつ上級生たちは強くなっていった。
そんな中でも私たち下級生は相変わらず野球より遊びばかり。
上達するはずがない。
先生が子供を並べてノックをしボールの取り方を教えたり、時には先生が胸元にグローブを構え「ここ以外は先生は取らないから胸元をはずれたら自分でボールは取りに行け」って。
先生は顔面にボールを受けても一切よけなかった。
みんな爆笑 笑
その頃、4年生だけを集めて当時では珍しいビデオを使って先生たちが指導を。
当時のビデオは「川上哲治」「長嶋茂雄」「王貞治」の野球の心構えや守備の心構え、ボールを打つ時の心構えなど。
このビデオが素直に身についてきた。
そしてその基礎を2年かけて身につけ私たちが6年生になったときは地元では一番強いチームに。
土日は遠征に呼ばれるようになり野球漬けの毎日を。
そして今でも40年以上前の事を鮮明に覚えている。
6年生になったとき茨城県少年野球大会で無名の私たちが快進撃。
なんと決勝まで勝ち抜いた。
決勝はもう8試合目だった。
それまで大差で勝ち抜いてきた。
決勝は取手のチーム。
球場は忘れもしない「鉾田一校」のグランド。
その年、鉾田一校が甲子園に出場しその選手たちが審判をつとめてくれた。
結果は一点差で負けたけど両チームのピッチャーは8試合すべて完投。
今も一番 仲のいい同級生が最後まで投げ抜いた。
この快進撃は昔の映画「がんばれベアーズ」みたい。
先生たちは決勝戦のあとみんなを集めて「おまえら・・・」って話を。
叱られるなって思った・・・・・
先生は「おまえら・・・ お前たちはキャッチボールもできなかった。そのお前らが茨城の決勝まで・・・・ 良く頑張ったなっ! 誇りに思え!」って。
そして先生が「みんなありがとうな! 今日まで頑張ったことをみんな忘れるな」って。
その一言でみんな感動し、悔し涙があふれてきた。
無名の弱小チームが勝ちぬいて決勝まで行けたのは先生の指導のたまもの。
公園での基礎練習があって、先生たちの熱心な指導があったから。
大人になってから先生に聞いてみた。
「あんなにへたくそで負けっぱなしで、どうしてあんなに熱心に指導してくれたんですか?」って。
先生は「みんなが素直だったから」ってひと言。
あんなにいたずらっ子ばかりであんなにへたくそだったのに・・・・・
当時の先生や親って見てるところが違うんだなぁって思った。
今でも公園は想い出の場所。
たまに前を通ると走馬灯のようにあの頃を想い出します。
それでは今日も心に太陽を持って、素敵な一日をお過ごし下さい(^O^)