みなさんおはようございます。
いつの間にか庭の梅が芽吹いていました。
昨年よりまた少し早まってきてるような。
井上幸一氏のメルマガを引用。
大河ドラマ「どうする家康」が終わりました。
視聴率は悪いようでしたが(過去2番目の悪さ)楽しみに毎回観てました。
戦国時代を経て何故、江戸幕府は15代260年も続いたのか。
【将軍】という地位に就くことで、特別な「権限」が得られると考えてしまいます。
現代でいうと、役員になり社長になれば「役職=地位」に伴って「権限」が得られると考えるのと同じです。
そして会社を退職すると(役職から降りる)
その権限はなくなり「ただの人」になるのが普通です。
地位と大きな権限がセットになっていると考えがちです。
歴史からみてみると日本は「地位」よりも「人=実力」を優先しています。
家康は2年で将軍職を二代秀忠に譲り、江戸を去り大御所として、駿府で将軍より強い権力を持ちました。
これは「役職・地位でなく実力(周りが認める)と」という仕組みです。
これは室町幕府三代将軍の足利義満が1394年に征夷大将軍を辞し、その職を義持に譲り、義満が「大御所」として政治を動かしていたのと同じで将軍を退いてから「本当の幕府の仕組み」を作っています。
その権力自体は将軍という役職に付随するものではなく、義満という個人に付随するものだったと言えます。
「いい国作ろう鎌倉幕府」
1192年源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられました。
頼朝の将軍就任をもって鎌倉幕府が成立したとされていました。
地位と権限が一致しているならば、頼朝は征夷大将軍になったから、それに伴うさまざま権限を行使できるようになったで正しいですが、昨今では、1185年壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし朝廷から諸国への守護・地頭等の設置・任免の許可をされた時「いいはこ作ろう鎌倉幕府」です。
地位と権限が一致しない日本社会の特徴から征夷大将軍という役職でなく、頼朝自身が実力で積み上げてきた「東国武士の棟梁という権力」を優先しています。
頼朝は1194年征夷大将軍をあっさりと辞任しています。
その後、1199年に急死するまで頼朝は、鎌倉幕府のトップであり、武家のトップであり続けました。
つまり征夷大将軍でなくとも、幕府のトップでした。
では幕府のトップ=武家の棟梁を決めるのはいったい誰なのか?
源頼朝は、御家人から自分たち東国の武士を代表する棟梁として支持されることで、鎌倉幕府という政権を作りました。
朝廷から「征夷大将軍」に任じられたとしても、御家人たちが支持しなければ、やはり武家の棟梁として立つことは難しいのではないでしょうか。
安倍さんが亡くなり、座長、五人の合議制で運営してきた最大派閥安倍派が崩れていく(?)
260年続いた徳川幕府の違いは何なのか?
それでは今日も心に太陽を持って、素敵な一日をお過ごしください(^_-)-